(レポーター:横浜の中島=ビーパル親爺)
「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(くわかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人なり・・・」で始まる、松尾芭蕉の「おくのほそ道(奥の細道)」。
私、俳句は門外漢であるが、芭蕉は「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」など有名な句を残した俳人である。
一度は芭蕉が訪ねた「奥の細道」を巡ってみたいと思っていて、それも、50年前のバイク「BMW R60/2」でと決めていた。
今年のゴールデンウィークは天気も良さそうなので決行することにした。

4月28日(千住~日光)174km
午前5時に起床し、自宅の横浜より首都高速にて、芭蕉が深川より船に乗り上陸した足立区・千住に向かった。
千住
千住大橋を渡ったすぐ左手にある大橋公園にバイクを停めた。
芭蕉はここで大勢の見送りを受け、歌枕(うたまくら)の地を訪ねて、同行者・河合曾良と全行程約600里(2400km)の旅に出たのは今から330年程前の元禄2年(1689年)3月27日(5月16日)のことであった。
※歌枕とは、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のこと。
公園には「奥の細道 矢立(やたて)始めの地」の碑が立っていた。
矢立とは、筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記用具のことで、ここで初めて使い詠んだ句が、
「行春(ゆくはる)や鳥啼魚(とりなきうお)の目は泪(なみだ)」


私は、これからの安全を矢立の碑に願い、ブルーツゥースでボブデュランを聴きながら、早朝なのでまだ肌寒い中を誰の見送りもなく一人出発した。
国道4号線を北上し栃木県「間々田駅」前にて友人に会い、コンビニコーヒーで談笑し、先を急いだ。(間々田にも芭蕉は一泊している)
室の八島
芭蕉の最初の目的地である栃木県「室(むろ)の八島」を訪ねた。
それは「大神(おおみわ)神社」の一角にあり、こんもりとした小さな八つの島に各地の八社が祀られていた。
▲大神(おおみわ)神社
室の八島(むろのやしま)

4号線に戻り北上し、鹿沼を抜け、日光杉並木を通り日光市内に入った。

▲日光東照宮の参道並木で「世界一長い並木道(全長37km)」としてギネスブックに認定されている。
含満ケ淵(かんまんがふち)
日光市内に入ると観光客の数が増えてきた。
ここは慈雲寺というお寺だが寺らしきものは無い、
数えるたびに数が違うといわれることから「お化地蔵(おばけじぞう)」とよばれる約70体の地蔵群が不気味だった。
日光市内に戻り、日本を代表する世界遺産の一つ「日光東照宮」を訪ねた。当然、芭蕉達も立ち寄っている。
日光東照宮
私は何度か訪れたことがあるが、いつも、その豪華絢爛な美しさには圧倒される。
特に国宝「陽明門」などは平成の大修理によってきらびやかさが増していて、徳川幕府が何代にも渡って創り上げた国宝級の建物が、老杉の中に点在しているのだ。

五重塔 中央に60cmほどの丸太が鎖で吊るされており、これが振り子の役目を果たし地震の時のエネルギーを吸収されるようになっているそうだ。

東照宮の有名な「三猿」「見ざる言わざる聞かざる」
日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)
当時は10万石以上の大名しか境内には入れなかったようだが、今は入場料さえ払えば一番奥の徳川家康の墓所まで行くことが出来るのは素晴らしいことです。ここで芭蕉が詠んだ句が、
「あらたふと青葉若葉の日の光」
境内を歩き回ったのと、初日であったためか、非常に疲れたので、早々に本日の宿、日光市「りんどうの家」に向かった。
その民宿「りんどうの家」は老夫婦で経営されており、おもてなしが非常に良かった。
宿代もリーズナブルで外国人(白人)のツーリストも多いそうだ。

4月29日(日光~福島)236km
朝食後、老夫婦の見送りを受け、東に走りだし鬼怒川を越え、芭蕉が14日間と最も長く滞在した黒羽に向かった。
後ろに見えるのは標高2,486mの男体山。

黒 羽
黒羽に到着し、まず訪れたのは栃木県太田原市「雲厳寺(うんがんじ)」である。
市内より10kmほど走った山深い所にあり、開創は12世紀で現在の建物は江戸末期に建築されたそうだ。


ここには、当然、芭蕉関係の資料が展示してある。

黒羽芭蕉の館には馬に乗った芭蕉とお供の曾良の像がたっていた。

黒羽見学を終え、那須へと向かった。
途中、水田地帯を走る北那須広域農道「
りんどうライン」は適度なワンディングで信号も無いし旧車にぴったりの道だった。

那 須
那須野は茶臼岳(1915m)南麓に広がる大高原である。その中心、那須湯本温泉の上手の「湯泉(ゆぜん)神社」を過ぎると硫黄のにおいが立ち込める「
殺生石(せっしょうせき)」に出た。
そこまでの道中は長い登り坂となっており、芭蕉達の健脚さに驚かされる。

何とも不気味な千体地蔵

白河の関
殺生石を見学後、来た道を戻り、「
白河の関」に向かった。
白河の関は、奥州三関(白河の関・勿来の関・鼠ケ関)の一つで、七世紀半ば設けら、歌枕として多くの和歌に登場している。
私は、高校野球で「優勝旗は白河の関を越えていない」などと言われるので、どんな所かどうしても訪ねてみたかった。
▲白河の関跡の白河神社

いよいよ白河の関も越え、陸奥の国に入り、福島県・須賀川を訪ねる予定であったが、俄かに曇り、雨も降ってきたので、今日の宿泊地「福島」まで直行することにした。
その雨も福島に着くころにはあがり、福島駅近くの「東横イン福島駅東口2」に到着した。
東横インはバイク客を心よく迎えてくれるのが嬉しい!
夜は福島在住のクラブ員「Sさん」が訪ねてきてくれ餃子をご馳走になってしまった。
「ありがとうございます。美味しかったです」
4月30日(福島~石巻)140km
医王寺
その医王寺は住宅地を抜けた所にあった。

▲医王寺

▲医王寺薬師堂。

▲医王寺は義経に縁のある寺で義経好きの芭蕉が訪ねたのもうなずけます。
それにしても佐藤兄弟(銅像の右と左、中央が源義経)が自分の命をなげうってまで助けた義経とはどんな人物だったのだろうか。

医王寺の後、芭蕉達は飯坂温泉に向かっているのだが、私は飯坂温泉には寄らず「Sさん」の案内で福島県・桑折(こおり)町のもう一人のクラブ員を訪ねた。
その方の家より歩いて数分の所に羽州街道と奥州街道の分岐点「追分(おいわけ)」があり案内してもらった。
私は右側の奥州街道を走り松島へと向かった。芭蕉も当然ここを通っている。
左側は羽州街道で、ここが始まりで青森県の油川を結ぶ街道である。

▲桑折町の追分、桑折町は奥州街道(日本橋から青森県)の54番目の宿場町であった。
武隈の松(二木の松)
ここは、幹線道路沿いにあり、気を付けていないと通り過ぎてしまいそうだった。
武隈の松は、芭蕉が詠んだ通り幹は二木に分かれていて、現在の松は七代目と言われている。
、 「桜より 松は二木(ふたき)を 三月越し(みつきごし)」

奥の細道300年を記念して「二木の松史跡公園」として整備してあった。

多賀城碑(壺の碑)
仙台を通り過ぎ、壷の碑(つぼのいしぶみ)として歌枕で有名な宮城県「
多賀城碑」を訪ねた。
ボランティアの方より説明を受けたが、多賀城は8世紀前半から11世紀前半(奈良・平安時代)には東北地方の政治、文化の中心地で、1辺約900m四方の大規模なものであったらしい。

壺の碑が収められている鞘堂は丘の上にポツンとあった。

鞘堂の中に鎮座する「壺の碑」と呼ばれる多賀城碑。
長い年月で彫り込んである文字は殆ど読むことができない。

松 島
塩竈を抜け、江戸を出発した芭蕉が目指した最大の目的地である
松島へと向かった。
芭蕉達は塩竃より船に乗り松島に上陸しているが、私は、県道144号の鉄橋の下をくぐり国道45号にでて左折すると右手に見えてきたのが松島湾。
その景観は日本三景(松島・天橋立・宮島)の一つに数えられている。
海岸沿いのメインストリート、国道45号から少し入った駐車場にバイクを停め、まず向かったのは
五大堂。
さすが人気のスポットと連休中のことでもあり、観光客が多かった。

五大堂は伊達政宗が再建し、国の重要文化財だ。

海岸沿いを散策し、伊達家の菩提寺でもある国宝「
瑞厳寺(ずいがんじ)」を訪ねた。

本堂には狩野派の豪華な襖絵が施されており、芭蕉も「金壁荘厳光を輝し」と感動する程で、国宝に指定されている。
残念ながら、内部は撮影禁止だ。

参道を行くと右手に石窟が連なる。

ところが一番に見たかった松島なのに、芭蕉は一泊のみで通過している。それに句も残していない。
この不可解な行動が芭蕉=忍者(隠密)の根拠の一つとなっている。→
こちら松島を後にし、無料の三陸自動車道を走って、石巻の「ホテルルートイン石巻中央」に着いたのは夕方4時頃であった。
芭蕉達は現在の石巻駅近くに宿泊したらしい。
仙台市内に住む、弟夫婦がホテルまで迎えに来てくれ、夕食を共にした。
5月1日(石巻~平泉~鳴子温泉)148km
今日は空が曇っており肌寒い。
石巻からは北上し、北上沿川いの県道257号を走ったのだが素晴らしい道だった。
北上川
北上川沿いは、芭蕉が現れてもおかしくないタイムスリップしたような道が続く。

登米町(とよままち)
岩手県との県境にある宮城県・登米市(市の場合は「とめし」と読む)の警察資料館と教育記念館に寄った。
ここは当時、北上川を利用した米の集積地であり相当栄えていたそうだ。
北上川の土手の所に、「芭蕉翁一宿の地」の碑が立っていた。
警察資料館は旧登米警察署庁舎である。明治22年築で、昭和43年まで登米警察署と消防署として使用されていたそうだ。

古い白バイやパトカーも展示してあった。

教育資料館は旧登米高等尋常小学校で明治21年の建築。

平 泉
国道342号を北上し一関を通り平泉に向かう。
芭蕉達は一関に泊まり、日帰りで平泉を訪れていて、平泉滞在は3時間ほどだったらしい。
私は中尊寺の駐車場にバイクを停め、
中尊寺金色堂へと連なる杉の巨木がそびえる月見坂をだらだらと登り金色堂に到着した。
中尊寺を中心に平泉が栄えたのは、北上川で採れる砂金で得た莫大な財をもとに1126年から100年の間、奥州藤原氏が隆盛をほこった。

中尊寺金色堂を訪ねた芭蕉達はちょうどその日は雨に降られ詠んだ句が
五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりどう)

松尾芭蕉と旧覆堂(さやどう)、曾良がいないので寂しそう。


中尊寺の駐車場で北海道の釧路でBMW R60/2(私と同じ)を購入し、そのまま北海道から走ってきた、横浜の植木屋さんと合流した。
これからは、芭蕉達と同じ二人旅となったが、どちらが芭蕉でどちらが曾良やら(笑)

ちょうどお昼どきだったので、駐車場脇の食堂で「わんこそば」を食べた。

中尊寺を後にして15分ほど走り、小高い丘を駆け上がると「
高館(たかだち)」についた。

ここで、義経は弁慶らの郎党と共に討死したのであった。

高館からの眺望は平泉唯一といわれ、とうとうと流れる北上川が眼下に眺望できる。
ここで詠んだ句が有名な、
「夏草や兵共(つわものども)が夢の跡(あと)」

義経好きの芭蕉はどうしても終焉の地を訪ねたかったのであろう。
芭蕉達は金色堂と義経堂を見学した後、他には寄らず一関に戻っている。
達谷窟(たつこくのいわや)
毛越寺(もうつうじ)を通り過ぎ、県道31号で鳴子に向かって走ると、右手の崖の所に朱塗りの神社が現れた、
達谷窟だ。
開山1200年の歴史を持ち平泉最古の寺院であり、みちのく唯一の霊場。
殺生禁断地とされ、植物の採取や飲食などは堅く禁じられているそうだ。

厳美渓(げんびけい)さらに県道34号を進み国道342号に突き当たった所に「
厳美渓(げんびけい)」の看板。
休憩を兼ね立ち寄った。


厳美渓を後にし県道240号から県道253号を走り鳴子温泉「
鳴子観光ホテル」に到着した。
このホテルは由緒があるらしく建物も立派で従業員の接客態度も素晴らしかった。
特に温泉は肌に優しく特筆ものであった。
5月2日(鳴子温泉~月山~飯坂温泉)322km
尿前の関(しとまえのせき)女将らの見送りを受け、国道47号線を西に向かい鳴子峡を過ぎた当たりを右折し、細い道を下り「
尿前の関(しとまえのせき)」を訪ねた。
ここは、陸奥(むつ)と出羽の国境にある関所跡で、芭蕉はここを通る時、激しい取り調べを受けた。
今は公園として整備されている。

邦人とはかつての国境を守る役人のことで、芭蕉はこの地で2泊している。
その時詠んだ句が
「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」

ここには芭蕉と曾良の木造の置物があった。

山刀伐(なたぎり)峠国道47号を左折し尾花沢に向かうために「
山刀伐(なたぎり)峠」を越えようとしたが、なんと、通行止め!
仕方なくトンネルを抜け、尾花沢に向かった。
芭蕉にとって、この峠は奥の細道一番の難所だったらしく、やっとの思いで尾花沢に到着している。

尾花沢あたりは桜が満開であった。

芭蕉は尾花沢に10泊しており、尾花沢の人々に勧められ、馬に乗り、
山寺(立石寺)まで往復しているが、我々は国道13号を山寺とは反対方面の北に向かい、また国道47号にでた。
本当は、我々も山寺に行き、今回の旅は終わりにして自宅に帰る予定であったが、どうしても最上川と羽黒山(出羽三山)は見てみたいということになり、もう一泊することにした。

最上川国道47号(鶴岡街道)は右手に
最上川を見て走ることになり、途中、道の駅「
とざわ」にて休憩したが、なぜ、こんな所に?韓国風な建物「高麗館」が隣接していた。

最上川は日本三大急流(富士川・球磨川・最上川)ひとつで流れが早い。
当時は道が無いので、芭蕉たちはここを船で下っている。

この最上川での芭蕉の句は
「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」

最上川沿いの鶴岡街道から左折し羽黒山に向かう道中は車は殆ど走ってなく、その素晴らしい景観に思わず「バンザイ」してしまった。

この景色は一生忘れないであろう。
前方の雪を抱いてる山は霊山「月山」(標高1984m)だ。芭蕉は月山に難儀して登っているが、芭蕉は本当に凄い!

羽黒山羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山の一つ「
羽黒山」に到着!



ここの芭蕉の銅像は毅然とした顔つきであった。

芭蕉達はこの後、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)を巡り、鶴岡から日本海にでて、日本海沿いに歩き滋賀県・大垣まで行っているのである。
芭蕉は知れば知るほど本当に凄い!
我々は月山を左周りで一周するように走り、
月山花笠ラインと呼ばれる約30kmの区間は、快適なワインディングロードだった。


立石寺(山寺)
山形市街の北東にある山寺には午後4時すぎに到着した。
正面の山、全体が山寺である。

ここ鳥居をくぐり、奥ノ院までは1000余段の階段を登らなくてはならない。
本日の宿、飯坂温泉までは結構距離があるので時間が無いということで諦めた。(本当は1000余段の階段にびびった!)

登らなかったので登った気分で山寺の案内図を写真に撮った。

ここにも芭蕉と曾良の銅像が仲良く並んでいた。
芭蕉達が訪れた時は7月中ごろで、ちょうどセミの鳴く季節で、ここで詠んだ句が有名な、
「閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声」
私たちがいた時は観光客が多く静かではなかったが・・・

記念に「山寺駅」前にて記念写真を撮った。

飯坂温泉の宿「
新松葉」に着いたの夕方6時ころであった。
建物内部はレトロな雰囲気で昭和に戻ったかのようだった。
ここは源泉かけ流しのいいお湯だったが、飯坂の人は、お湯を薄めることがダメだそうで、お湯が熱いのにはまいった。

本日、走ったコース、素晴らしい景観の道が続きお勧すすめです。

5月3日(飯坂温泉~横浜)348km
朝食後、散歩をかねて飯坂温泉を散策した。
飯坂温泉駅すぐ近くの日帰り温泉「波来湯(はこゆ)」に入った。ここは飯坂名物の熱い湯と温かい湯の2つの浴槽がある。熱い方は私には無理!

「飯坂温泉」駅前の芭蕉像の前で、ここを、今回の旅の結びの地と決め、二人で「バンザイ!」

この後、福島の友人宅により、東北道で横浜の自宅に帰った。
全走行距離:約1,400km
本当は芭蕉達と同じ大垣まで走りたかったが、残りは又の機会として、今回の「奥の細道」の旅は終わった、
拙い文章に最後までお付き合い頂きありがとうございました。

レポーター:
横浜の中島(ビーパル親爺) ----------------------------------------------------※注:写真は勝手に管理人が掲載しております。都合の悪い方はお知らせ下さい。※ツーリングレポート一覧に戻る→こちら
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